歯列矯正を検討する上で、見過ごされがちながらも極めて重要な要素が「舌癖(ぜつへき)」の存在です。舌癖とは、無意識のうちに行っている舌の不適切な位置や動きのことで、これが歯並びや顎の発育に悪影響を及ぼすことが少なくありません。例えば、安静時に舌が常に低い位置にある「低位舌」は、上顎の成長を抑制し、結果として上顎の歯列が狭窄したり、交叉咬合(上下の歯が横にズレて噛み合う状態)を引き起こしたりする可能性があります。また、舌で前歯を押し出す「舌突出癖」は、出っ歯(上顎前突)や開咬(前歯が噛み合わない状態)の直接的な原因となり得ます。特に成長期のお子様の場合、舌癖の影響は顕著に現れやすく、早期に改善することが望ましいとされています。成人であっても、長年の舌癖は歯並びを徐々に悪化させる要因となり、歯列矯正治療後の後戻りの大きなリスクとなります。歯科医院では、歯列矯正の診断の際に、これらの舌癖の有無を注意深く観察します。視診だけでなく、発音や嚥下(飲み込み)のパターンを確認することもあります。もし舌癖が認められた場合、単に矯正装置で歯を動かすだけでは根本的な解決には至りません。そのため、多くの場合、MFT(Myofunctional Therapy:口腔筋機能療法)と呼ばれるトレーニングが併用されます。MFTは、舌や唇、頬などの口腔周囲筋の機能を改善し、正しい舌の位置や動きを再教育するためのプログラムです。具体的には、舌を正しい位置(スポットと呼ばれる上顎の前歯の少し後ろ)に置く練習、正しい嚥下方法の習得、唇を閉じる力を鍛えるトレーニングなどが行われます。これらのトレーニングは、歯科医師や専門の訓練を受けた歯科衛生士の指導のもと、患者さん自身が主体的に行う必要があります。矯正治療中にMFTを適切に行うことで、舌からの不適切な圧力が取り除かれ、歯がスムーズに移動しやすくなります。さらに、治療後の歯並びの安定性が格段に向上し、後戻りのリスクを大幅に軽減することができます。舌は非常に強力な筋肉であり、その力が不適切な方向にかかり続ければ、時間をかけて歯を動かしてしまいます。歯列矯正を成功させ、長期的に美しい歯並びを維持するためには、この舌の力をコントロールし、味方につけることが不可欠なのです。
舌癖が歯並びに及ぼす影響と矯正歯科での対応